雑記

その時々で、適当に書いてきます。

きっと努力は夢中に勝てないし、多分本当にたった一人の熱狂が世界を動かしている

昨日、『SABAR』という居酒屋に行った。

読んで字のごとく鯖に特化した居酒屋で、フードはほぼ全品鯖を使っているし、サバ=38にちなんで380円のメニューとかアルコール度数38度の焼酎なんかが並んでいる。

料理もバツグンに美味しかったが、鯖への狂ったような愛がひしひしと感じられて、その熱量が素敵だった。

帰り際、『サバへの愛を語り3685万円を集めた話』という運営会社の社長の書籍が目に入り、思わず購入。彼の人生が本当にサバを中心に回っており、日本全体でのサバの漁獲量や消費量にコミットしている姿にちょっと感動してしまった。

 

『努力は夢中に勝てない』は為末大さんの言葉で、『たった一人の熱狂』は見城徹さんの言葉だが、初めて目にした時から意識の奥深いところに焼き付いて離れない。

勉強にしても、スポーツにしても、仕事にしても、何かに打ち込む時に『一生懸命に頑張って、悪戦苦闘しながら取り組む人』と『一切のストレスを感じることなく、楽しみながら取り組む人』に分かれる。前者を『努力している人』、後者を『夢中になっている人』と置いた時に、努力は夢中に勝てないという話。

何が勝ちで何が負けなのかは置いといて、これはすごくしっくりくる。中高時代を思い返せば、お金をもらっても解きたくないと自分が思うような数学の問題を、ゲームのように楽しそうに解いてる同級生がいたし、活字を愛し活字に愛された友人が出版社で大活躍してるし、そういう話は枚挙に暇がない。

もちろん彼・彼女たちが何のストレスも苦難もなく取り組んでるなんて訳はなくて、いろんな葛藤や苦しみがあるとは思うけど、細胞レベルでのめり込める何かに出会えたということなんだと思う。

見返りとか、損得とか、打算とか、見栄とか、そういうものから解き放たれた純粋なエネルギーこそが『熱狂』で、人を惹きつけ、物事を動かし、世界を変えるような営みは、必ず誰か一人の熱狂から生まれ、広がっていくんだろうなと。

 

一方で、そんな生き方は、一部の限られた人にしかできないもんだ、みたいな諦めみたいなものを感じることが結構多い。これはある種の前提の違いだろうなと思っていて、『私には熱狂できるものなんてない』訳ではなく、『全ての人に熱狂できるものはあるんだけど、ただ見つけられていないだけ』なのだと思っている。この違いは結構大きくて、『存在しない』のではなく、『存在しているけどまだ出会えてない、もしくは認識してない』だけで、根っこにあるのは『そんな生き方できる訳ない、社会人なんてそんなもんでしょ』という諦めなのかな、と。

働くということへの諦め、自己実現という考え方への冷たい視線が、蔓延しているような感覚を覚える。

『やりたいことを見つけて、目標に向かって全力で生きよう!』みたいなことを言いたい訳ではなく、『何かに熱狂して生きている自分』を諦めないことに尽きるかなと思っている。ソレに出会うのは5歳かもしれないし、20歳かもしれないし、40歳かもしれないし、ともすると80歳かもしれない。それはもう自分でコントロールできないし、無理やり決めるもんでもないし、『見つかる』に近いのかなという感覚。ただ、『チャンスは準備された心に降り立つ』という言葉に全てが詰まっていて、そうなりたいという想いが自分の中になければ絶対に出会っても気付けないんだろうなと思う。

となると、オープンで開かれた心と、何が自分のど真ん中なのかをあれこれと試行錯誤して探索する行動力が何よりも大切で、それさえあれば大体なんとかなるんだろうなと思う。

いつ死ぬかわからない貴重な人生、せっかくだから夢中になって、ガムシャラに青春しながら過ごしたいなと思うわけです。