雑記

その時々で、適当に書いてきます。

感じる力と言葉にする力

ご無沙汰してます。約8ヶ月ぶりの更新です笑。ふとしたきっかけを頂きまして、また不定期で書いてみようかなと。

 

すっごく今更かつ、わざわざ口にするのも照れるんですが、最近美術館にハマりだしました。みんながこぞって行く理由がようやく分かった気がします。

 

10月に倉敷で大原美術館、11月に三菱一号美術館でフィリップス展、先週は大阪でルーブル美術館展とエッシャー展、そんで今日はムンク展とロマンティックロシア。

(高知で浮世絵も見たけど、それはあんまりピンとこなかったな。)

 

何がいいのかなぁと考えてみると、結構言語化が難しい。ずっと見ていたいと思える絵とかは、近くで見て、遠くから見て、何回繰り返してもまるで飽きない。ヨークシンでのゴンとキルアじゃないけど、凝は使えないけど、本物の作品から溢れ出すオーラに気押されるような感覚もある。風景画でも人物画でも静物画でも、今ではないいつか、ここではないどこかに連れて行ってくれる感覚。

『構図が…』『色使いが…』『筆使いが…』とか、解説しようと思えば無限に語れるんだろうけど、そういう前提知識がなくても魅了される何かがある。

 

言葉は多分、どこまで行っても人の感情や心の機微を100%捉えきることはできなくて、伝えたいメッセージや表現したい想いに言葉が追いつかないから、人は絵を描き、像を彫り、音を鳴らし、写真を撮り、映像を残し、歴史を紡いできたんだろうなと思う。

もしそうだとしたら、いわゆるアートと呼ばれる領域の作品は、語れども語れどもその深奥には辿り着けないのかもしれない。だから、『やばい』とか『エモい』としか言えない瞬間って絶対あるだろうし、言葉が追いつかない胸の高鳴りに幸せを感じることも絶対にある。

 

絵に限らずだけど、言葉にならない何かを感じる瞬間ってすごく大事なんだと最近つくづく思う。定量的で客観的で合理的で、理屈で説明できてしまう世界にしか触れないと、心が貧しくなる。確か平田オリザの本か何かで、芸術は心の栄養で、それがなければ人は生きていけないみたいな話があったんだけど、本当にそうだなと。

 

一方で一方で、言葉にする力もものすごく大事。考えるという行為は、そもそも言葉が扱えないと一向に深まらないし、感情や想いを伝えるのも、戦略や戦術を落とし込むのも、言葉というツールを介さないとひどく曖昧で、不確かなものになってしまう。

言葉の引き出しが多ければ多いほど、同じものを見ても、同じことを体験しても、そこに付与する意味は格段に豊かになるし、同じ出来事から得られる喜びや学びも深くなるはずで。

(自分の場合は、言葉遊びが好きすぎて、ちょっとズレた組み合わせとか表現にトライして、誰にも伝わらないというパターンが多いので、それはそれで考えたほうがいい笑)

 

そう思うようになってから、これもベタベタだけど谷川俊太郎とか最果タヒとか読むとすごい痺れる。何をどうしたらこんな言葉が生まれるんだろうとか、色彩豊かな言語表現に感動する。逆に言葉になってるのにそこに込められた何かの輪郭がまったく掴めなくて、文字は読めるのに意味が分からない瞬間もあったりして、言葉になっているのに言葉で受け取れないこともあるのが面白い。

 

言葉にならないものが世界にはたくさんあって、自分の内側にもたくさん眠っていて、それは言葉にせずに感じる力と、言葉に落とし込む力と、この両極を鍛えることで人生が輝くんだろうなと大げさではなく思う。

 

来年はもっと好奇心を剥き出しに、アンテナの赴くままに感じて考える一年にします。