雑記

その時々で、適当に書いてきます。

久しぶりに書こうと思って過去記事見たら、言いたいこと全部書いてた

どうも、Mr.三日坊主です。続けるってホント大変。

 

久しぶりにブログ書くか〜と思い、過去記事見たら、最近思ってることとか言いたいこと全部書いてた。一貫しているということなんでしょうか。真新しいメッセージも特にないなぁ笑。

 

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今年のGWはと言えば、一年前とビビるくらい同じ末路を辿りそうです。東京で結婚式出て、仲良しと呑んだくれて、実家でゆっくりして、ばあちゃんち行って。ラスト2日は大阪戻って永遠に録画見てると思う。

やっぱり、休日の過ごし方なんてそうそう変わんないね。四国ブームがすごいってことだけSNSから伝わってきてる。大塚国際美術館はほとぼり冷めたら行きたいな。

 

4月はなんというか本当に濃かった。一分一秒を惜しんで死に物狂いで走りきる感覚は、なんというか久しぶりだった。支えて続けてもらった上司や同僚にはホント感謝してます。ありがたいことがたくさんあったな。お客さんに『辻井さんと出会えて本当に良かった』と言ってもらえたのは、ただただ嬉しかったし、あの時の社長の言葉と声と表情は、きっと死ぬまで忘れない。

 

組織人事コンサルティングというお仕事になるんですが、一回りも二回りも年の離れた経営者の方に、恐れ多くも組織づくりを指南させていただく仕事で。組織の一体感やら、ひとりひとりのモチベーションやら、おそらく世界で一番不確実性の高い領域でやってる分、面白いけど難しいし、尊いけど大変だし、やりがいよりも怖さを感じることの方が遥かに多い。自分なんて欠落したところだらけだし、怠惰で甘ちゃんな自分は不適格だって言い訳した回数は数え切れない笑。

それでも未来を託してくださるお客さまがいて、目の前で人が光り輝く瞬間に立ち会えて、笑いあり涙ありで信じてくれる仲間がいて。それは本当に本当にありがたいし、幸せなことだと心から思う。

 

結論は特にないんだけれども笑、今日はこの辺で。今週のナイトスクープマジで素晴らしかったから、みんな見てくれ。

 

では。

 

吉野家の牛すき鍋膳

あけましておめでとうございます。

平成31年、2019年、ホントに気付けば遠くまで来たもんだ、って心持ちで光陰矢の如しですね。ビビります。

 

一年の計は元旦にありと言いますが、所信表明を伝える人もいれば、所信表明なんて言いっぱなしで終わるから不要だという意見もあればで、SNSは年始も盛り上がってますね笑。西武の広告も、桑田×ユーミンの是非も、年末年始に偉い人が読む本も、芸能人の政治的発信も、もうみんな好きにすればいいと思います笑。ホントに。

 

世相を斬る、みたいなことがしたい訳ではないので、ブログはマイペースに書いていこうと思います。

年末年始でSHOWROOM前田さんの『メモの魔力』を読みまして、ひたすらに『具体化と抽象化と自分ごと化をし続けよう』って本だったんですが、時々思考訓練で書いてみようという次第です。専門知識もなければ、独自の鋭い切り口も持ち合わせてない落書きですが、今年はテーマにこだわらずにアウトプット増やしていきます。(所信表明っぽい!)

 

吉野家で牛すき鍋膳ってあるじゃないですか。すき家とかも追っかけてましたけど、多分吉野家が最初にヒットしてて、確かに吉野家行ってもかなりの確率で食べてる人がいる。なんでなのかなぁという理由を考えてたら、3つにまとまりました。(コンサルっぽい!)

 

①季節感

言わずもがな、冬といえば鍋。『夏は氷削って出しとけば勝手に売れる』的なテンションで、冬は温かいもの出せば売れるだろうと笑。人って季節感にものすごく弱いので、『この時期といったらこれだよね』があるとやっぱり売れる。チェーン店でパッと思い当たるのは、マックの月見バーガーとか、スタバの桜フラペチーノとかかな?そんなに食べたくなくても、飲みたくなくても、期間限定だと『一回は食べとかないとな』ってなる。マックとかスタバは、定期的に上手いことやってる気がする。

 

翻って吉野家、もともと牛丼って冷たくはないけどオールシーズンの食べ物で、季節感は一切感じない。8月でも2月でも同じテンションで食える。そんな慣習を打ち破ったのが、牛すき鍋膳なのかなと。逆に夏場に食べたくないもんね。

去年もやってて食べた記憶があるけど、確かに味は分かってるのに今シーズンまた食べてしまった。寒いし鍋でも食いたいな、でも手頃に食べれないしな、っていう時に程よいのはヒットの秘訣かも。

 

 

②高級感

牛丼並盛りが380円の中、牛すき鍋膳は690円。ほぼダブルスコア。この構図で思い当たるのは、マックとかフレッシュネスの高級バーガーとか、スタバのリザーブコーヒーとかかな。あとは、コンビニのアイスコーナーの中に燦然ときらめくハーゲンダッツ

『ちょっと贅沢したいなぁ、けどそんなに金は使いたくないしなぁ』って時に、300円のアイスを食べ、800円のコーヒーを飲む心理は、結構多くの人に通底するのではないか。

その文脈でいうと、吉野家でサラダも味噌汁も卵もつけずに、しかも並盛りで690円ってかなりのチャレンジだけど、たまに行きたくなる価格帯でもある。『なんか野菜もいっぱいだし、お肉もゴージャス感あるし、卵につけて贅沢感あるし、690円なのもうなずけるよね!』と思わせる説得力も、そこはかとなく纏っている気がする。

 

③家庭感

チゲ鍋膳もアレンジで出てるけど、最初からそれがメインだったらここまでヒットしてないのでは、という仮説を持ってます。なぜなら、懐かしくないから。

すき焼きっていうのが良かったんだと思う。ビルボードにもランクインしてしまう、世界共通語のSUKIYAKI。家庭を持たず一人暮らししてると、なかなか食べる機会はない。多分リアルにお盆か年末年始に実家に帰った時くらいじゃないか?

みんなの心に焼き付いていて、どことなく郷愁を誘って母親を思い出し、特別な日に食べるスペシャルなエピソードが添えられる数少ない食べ物なんじゃないかと思う。『インスタント実家』というか、『手が届く特別感』というか、そんな佇まいが人を惹きつけているのではないか。なんとなく女性客が一人で食べる場面もよく見る気がしていて、家庭感は意外と小さくないのではと思ったりした。

 

 

引いて見ると、季節感とか高級感はやっぱりスタバとかマックがうまい気がする。家庭感は、逆にあんまりプレイヤーが思いつかなかった。大戸屋とかやよい軒も商業化されすぎてる感じがして、おふくろの味って感じはしない。ここは、チェーン店が味や雰囲気を再現しづらい部分なのかもな。

 

ホントは自分の仕事とか人生に惹きつける『転用』までしてメモの魔力は発揮されるらしいのですが、今回は畑違いでもあるので一旦ここまでということで。

不定期でつらつら書いてみたいと思います。

感じる力と言葉にする力

ご無沙汰してます。約8ヶ月ぶりの更新です笑。ふとしたきっかけを頂きまして、また不定期で書いてみようかなと。

 

すっごく今更かつ、わざわざ口にするのも照れるんですが、最近美術館にハマりだしました。みんながこぞって行く理由がようやく分かった気がします。

 

10月に倉敷で大原美術館、11月に三菱一号美術館でフィリップス展、先週は大阪でルーブル美術館展とエッシャー展、そんで今日はムンク展とロマンティックロシア。

(高知で浮世絵も見たけど、それはあんまりピンとこなかったな。)

 

何がいいのかなぁと考えてみると、結構言語化が難しい。ずっと見ていたいと思える絵とかは、近くで見て、遠くから見て、何回繰り返してもまるで飽きない。ヨークシンでのゴンとキルアじゃないけど、凝は使えないけど、本物の作品から溢れ出すオーラに気押されるような感覚もある。風景画でも人物画でも静物画でも、今ではないいつか、ここではないどこかに連れて行ってくれる感覚。

『構図が…』『色使いが…』『筆使いが…』とか、解説しようと思えば無限に語れるんだろうけど、そういう前提知識がなくても魅了される何かがある。

 

言葉は多分、どこまで行っても人の感情や心の機微を100%捉えきることはできなくて、伝えたいメッセージや表現したい想いに言葉が追いつかないから、人は絵を描き、像を彫り、音を鳴らし、写真を撮り、映像を残し、歴史を紡いできたんだろうなと思う。

もしそうだとしたら、いわゆるアートと呼ばれる領域の作品は、語れども語れどもその深奥には辿り着けないのかもしれない。だから、『やばい』とか『エモい』としか言えない瞬間って絶対あるだろうし、言葉が追いつかない胸の高鳴りに幸せを感じることも絶対にある。

 

絵に限らずだけど、言葉にならない何かを感じる瞬間ってすごく大事なんだと最近つくづく思う。定量的で客観的で合理的で、理屈で説明できてしまう世界にしか触れないと、心が貧しくなる。確か平田オリザの本か何かで、芸術は心の栄養で、それがなければ人は生きていけないみたいな話があったんだけど、本当にそうだなと。

 

一方で一方で、言葉にする力もものすごく大事。考えるという行為は、そもそも言葉が扱えないと一向に深まらないし、感情や想いを伝えるのも、戦略や戦術を落とし込むのも、言葉というツールを介さないとひどく曖昧で、不確かなものになってしまう。

言葉の引き出しが多ければ多いほど、同じものを見ても、同じことを体験しても、そこに付与する意味は格段に豊かになるし、同じ出来事から得られる喜びや学びも深くなるはずで。

(自分の場合は、言葉遊びが好きすぎて、ちょっとズレた組み合わせとか表現にトライして、誰にも伝わらないというパターンが多いので、それはそれで考えたほうがいい笑)

 

そう思うようになってから、これもベタベタだけど谷川俊太郎とか最果タヒとか読むとすごい痺れる。何をどうしたらこんな言葉が生まれるんだろうとか、色彩豊かな言語表現に感動する。逆に言葉になってるのにそこに込められた何かの輪郭がまったく掴めなくて、文字は読めるのに意味が分からない瞬間もあったりして、言葉になっているのに言葉で受け取れないこともあるのが面白い。

 

言葉にならないものが世界にはたくさんあって、自分の内側にもたくさん眠っていて、それは言葉にせずに感じる力と、言葉に落とし込む力と、この両極を鍛えることで人生が輝くんだろうなと大げさではなく思う。

 

来年はもっと好奇心を剥き出しに、アンテナの赴くままに感じて考える一年にします。

悲観主義は気分によるもので、楽観主義は意志によるものである

お久しぶりです。気付けば2ヶ月以上更新してなかったんですね。相変わらず、元気にやってます。

みなさん、ゴールデンウィークはいかがお過ごしですか。海外とかリゾート行ってる人めちゃ多いっすね!自分は、本当に半径1キロ圏内で完結しそうな勢いです。

コナンの映画見て、撮りためたアンナチュラルとコンフィデンスマンを見て、大量のバラエティを流し見しながらずっと本読んでます。幸せ。
ついにジム登録しました。明日プロテインが届きます。マジで痩せる、マジで痩せる、マジで痩せる。

振り返ってみると、1〜3月は比較的順調に戦えてたんですが、4月は結構いろんな壁にぶち当たったなーと思います。
リスク思考の弱さ(楽観主義の反作用)で問題を回避できなかったり、各論まで落とし込む精緻さがなくてグズグズになったり、改めて自分はチームで動くのが苦手なんだなぁと痛感した1ヶ月でした。(自分の手の届く範囲で、自分のペースでやってしまいがち)
仮にその方が早かったとしても、このままじゃ遠くまでは行けないなぁと思うので、もっともっと協働スキルを磨かなきゃなーと。

ただ、うまくいかないなりに成長を感じたのは、壁の存在を前向きに受け止められるようになったこと。昔だったら、『どうせ自分には無理だし』『そんな才能ないんだから仕方ない』とか、クソみたいな言い訳並べて逃げてたと思うんですが、『上等だこの野郎、乗り越えてやらぁ!』というマインドでい続けられたのはとても良かったです。


何のストレスもなく、うまくやれているということは、出来ることしかやってなくて、成長も生きがいもないよね、みたいなことがやっと腹の底に落ちてきたんだなと感じます。

うまくいかないことが問題なのではなく、そこと向き合い戦えていないことの方が問題なんだと。


今日のタイトルは、アランの『幸福論』の有名な一節ですが、本当にそうだなと思います。ポジティブかネガティブかというのは、先天的で変えられない性格ではなく、他ならぬ自分自身が選択しているライフスタイルなんだと思います。

もちろん、それぞれに異なる境遇があり、環境があり、背景・文脈は十人十色ですが、悲観主義の人はネガティブでいることから何らかの利得を得ている。アドラーの目的論そのままですが、状況を憂いて、愚痴を吐いて、一歩も前に進まないこと自体をその人自身が欲している。

 

そう考えると、世の中のリーダーと呼ばれる類の人は、すべからく楽観主義なのではないかと思えてくる。もちろん、リスクフォーカスが強く、精緻に戦略戦術を編み上げる人もたくさんいると思うけど、『自分が描いたゴールを本気で目指し、チームを動かしてコトを成す』という点に関して言えば、全員ができない理由ではなく、やれる方法を考えている。

どんなに苦しくても、辛くても、逃げ出したくなるほどの逆境に追い込まれても、笑って前を向き、上を目指し続けるのがリーダーのあり方なのかなと思います。

最終的には、そういう人の周りに人が集まり、チームができ、何かを成し遂げるのだろうな、と。

 

そんなこんなで、いったんどんな時でも前向きに、笑顔を忘れずに突っ走っていきたいなと思っている今日この頃です。

分かった気にならない謙虚さと、分かろうとする真摯さと

コミュニケーションって難しい。ありきたりだけど、改めてつくづく思う。人は人に分かってほしいと思う割に、相手のことは分かろうとしない。相手に何かを求めている時ほど、自分も同様に求められているとは夢にも思わない。

『ふたりでひとつになれちゃうことを  気持ちいいと思ううちに  少しのズレも許せない  せこい人間になってたよ』というのはB’zの有名すぎるワンフレーズですが、自分と違うということを受け入れられず、自分と同じであることを求めてしまうのは、人間のサガみたいなものなのかもしれない。

『自分と他人は違う』という言葉の重たさたるや。当たり前だろと一笑に付したくなるが、腹の底まで得心して生きるのは本当に難しい。自分の感じ方や見方は何一つ当たり前ではなく、自分が信じられない生き方や考え方がいくらでもあるということがなかなか受け入れられない。

『わかりあえない』という前提からコミュニケーションを立ち上げよう、っていう平田オリザさんの本は今でもすごく心に残っていて、『わかりあえる』ことを期待するから、すれ違うと傷つく。わかりあえなかった一つ一つの誤差が傷になって、刻まれていく。けど、『わかりあえない』という前提に立てば、一つ一つの共感が喜びになる。スタート地点を変えるだけで、こんなにも世界の地平は広がるのかと衝撃を受けたけど、本当にその通りだな、と。

 

こんな御託を並べていても、毎日時間を共にしている同僚の心情がまったく分かっていなかったりするし、無意識のうちに『わかってわかって星人』になっちゃってることもあるし、本当にややこしくて難しい。

けどやっぱり同じ温度感と距離感で物事に向き合えた時の喜びとか、本当に大切にしたい「モノ」や「コト」が通じ合った時の幸福感とか、かけがえがないなぁと思う。それだけで『生きていてよかった』と思えるだけのエネルギーを与えてくれる。

ありがたすぎることに、そう感じさせてくれる仲間やお客さんに本当に恵まれていて、返さなきゃいけないものがたくさん、たくさんある。

今すぐに返せるかは分からないけど、目の前の人が何を見ていて、何を掲げていて、何を抱えているのか、一人一人のひとつひとつに真っ直ぐに向き合う生き方をしたいな、と。

そのためにも、分かった気にならない謙虚さと、分かろうとする真摯さを大切に、日々を過ごしていきます。

『その気になれば会える』と思ってるうちは、意外と会えない

大阪に引っ越して3ヶ月強が経ちましたが、結構いろんなものが変わったなーと。

 

徒歩通勤は今でも続けていて、電車に乗らない職住近接生活って超快適だな、とか。

どこで飲んでも安くて美味くて、飲み会がいちいち幸せだな、とか。

芸人が出てるしょうもないバラエティが超たくさんあって、ただただ楽しいな、とか。(アキナの帯番組とか胸熱)

 

いろいろあるんですが、意外と大きかったのが、引っ越す前より関わりが深くなった友達が意外とたくさんいる。多分、東京にいる頃は、『連絡取ればいつでも会えるし』と思って、連絡も取らなければ会うこともなく過ごしていた人たちと、引っ越していよいよ会えなくなると、逆に連絡を取り始めるという。

LINEとかメッセンジャーで電話することも前より断然増えて、離れることで逆にコミュニケーションが増えている。これって結構面白くていろんな場面でありそうな気がする。

いつでも行けるからと思っていたラーメン屋が気づいたら潰れていたり、いつか買おうと思っていたものが気づいたら売り切れていたり。ありきたりだけど大事さに気づいたらもう間に合わないパターン。

今に引きつければ東京にいる友達とも距離を気にせず関われればいいし、大阪とか近くにいる友達とは今思ってるより会った方が良いんだろうな。

 

「何でもないような事が幸せだったと思う。なんでもない夜の事、二度とは戻れない夜。」

虎舞竜が沁みますね。

 

大阪近郊に遊びに来る事があれば、ぜひお声掛けください笑。

安くて美味い店、行きましょう笑。

きっと努力は夢中に勝てないし、多分本当にたった一人の熱狂が世界を動かしている

昨日、『SABAR』という居酒屋に行った。

読んで字のごとく鯖に特化した居酒屋で、フードはほぼ全品鯖を使っているし、サバ=38にちなんで380円のメニューとかアルコール度数38度の焼酎なんかが並んでいる。

料理もバツグンに美味しかったが、鯖への狂ったような愛がひしひしと感じられて、その熱量が素敵だった。

帰り際、『サバへの愛を語り3685万円を集めた話』という運営会社の社長の書籍が目に入り、思わず購入。彼の人生が本当にサバを中心に回っており、日本全体でのサバの漁獲量や消費量にコミットしている姿にちょっと感動してしまった。

 

『努力は夢中に勝てない』は為末大さんの言葉で、『たった一人の熱狂』は見城徹さんの言葉だが、初めて目にした時から意識の奥深いところに焼き付いて離れない。

勉強にしても、スポーツにしても、仕事にしても、何かに打ち込む時に『一生懸命に頑張って、悪戦苦闘しながら取り組む人』と『一切のストレスを感じることなく、楽しみながら取り組む人』に分かれる。前者を『努力している人』、後者を『夢中になっている人』と置いた時に、努力は夢中に勝てないという話。

何が勝ちで何が負けなのかは置いといて、これはすごくしっくりくる。中高時代を思い返せば、お金をもらっても解きたくないと自分が思うような数学の問題を、ゲームのように楽しそうに解いてる同級生がいたし、活字を愛し活字に愛された友人が出版社で大活躍してるし、そういう話は枚挙に暇がない。

もちろん彼・彼女たちが何のストレスも苦難もなく取り組んでるなんて訳はなくて、いろんな葛藤や苦しみがあるとは思うけど、細胞レベルでのめり込める何かに出会えたということなんだと思う。

見返りとか、損得とか、打算とか、見栄とか、そういうものから解き放たれた純粋なエネルギーこそが『熱狂』で、人を惹きつけ、物事を動かし、世界を変えるような営みは、必ず誰か一人の熱狂から生まれ、広がっていくんだろうなと。

 

一方で、そんな生き方は、一部の限られた人にしかできないもんだ、みたいな諦めみたいなものを感じることが結構多い。これはある種の前提の違いだろうなと思っていて、『私には熱狂できるものなんてない』訳ではなく、『全ての人に熱狂できるものはあるんだけど、ただ見つけられていないだけ』なのだと思っている。この違いは結構大きくて、『存在しない』のではなく、『存在しているけどまだ出会えてない、もしくは認識してない』だけで、根っこにあるのは『そんな生き方できる訳ない、社会人なんてそんなもんでしょ』という諦めなのかな、と。

働くということへの諦め、自己実現という考え方への冷たい視線が、蔓延しているような感覚を覚える。

『やりたいことを見つけて、目標に向かって全力で生きよう!』みたいなことを言いたい訳ではなく、『何かに熱狂して生きている自分』を諦めないことに尽きるかなと思っている。ソレに出会うのは5歳かもしれないし、20歳かもしれないし、40歳かもしれないし、ともすると80歳かもしれない。それはもう自分でコントロールできないし、無理やり決めるもんでもないし、『見つかる』に近いのかなという感覚。ただ、『チャンスは準備された心に降り立つ』という言葉に全てが詰まっていて、そうなりたいという想いが自分の中になければ絶対に出会っても気付けないんだろうなと思う。

となると、オープンで開かれた心と、何が自分のど真ん中なのかをあれこれと試行錯誤して探索する行動力が何よりも大切で、それさえあれば大体なんとかなるんだろうなと思う。

いつ死ぬかわからない貴重な人生、せっかくだから夢中になって、ガムシャラに青春しながら過ごしたいなと思うわけです。